朝目が覚めると、いつものように師匠が縁側で丸まっていた。 師匠は僕が生まれる前からこの家にいて、本当の名前をクロという。 もう随分と歳をとった老猫で、黒い毛並みには所々白い毛が混じっている。

「師匠、おはよう」

僕の声に、師匠はゆっくりと尻尾を振って応える。 こうして師匠に挨拶をするのが僕の日課だ。

師匠への挨拶を済ませ、顔でも洗いに行こうかと洗面所へ足を向けると―――

「良い夢が見れたかい」

不意に、懐かしい声が聞こえた。

驚いて振り返ると、師匠がこちらをじっと見ていた。 金色の瞳が、朝の光を反射して輝いている。

「そっか、今日は喋れる日なんだね」

僕の言葉に師匠は軽く目を細め、再び庭先に視線を向けて言った。

「どうやらそうらしい」

―――

物心ついたときから、師匠とはこうして話せるようになる日がある。 滅多に無いことだからいつも少し驚いてしまうけれど、その声を聞くとどこか安心する自分がいた。

「いつ以来だろうね」

僕が師匠の横に腰を下ろして問いかけると、師匠はゆっくりと尻尾を揺らしながら答える。

「ずいぶん久しぶりな気がするよ」

そのまま、他愛のない話をした。最近庭に来るカラスが気になるとか、近所の田んぼがようやく田植えを終えたとか。

そんな風に何気ない時間を過ごしていたけれど、やがて師匠はふと遠くを見て言った。

「なぁ、なんとなくわかっていると思うが、私はそろそろ終わりが近い」

「ぅえっ…!?」

突然の告白によくわからない声が出た。思わず師匠の方を見る。

師匠は僕の方を一瞥して、淡々と続ける。

「今日こうしてお前とまた話せるようになったのも、このことを伝えたかったからだと思うんだ」

今まで目を背けていた問題に向き合わされて、ショックで言葉が出ない。 あぁ、ついにこの時が来てしまったんだ。涙が零れそうで、僕は天を仰ぎ、ぎゅっと目を閉じる。

ふと、頭の中に嫌な考えがよぎる。否定して欲しいと願いながら恐る恐る確認する。

「……その時が来たら、師匠も出ていっちゃうの?」

ずっと気になっていた。猫は死ぬ直前に姿を消すという話。 生まれたときからそばに居てくれた師匠とそんな別れ方はしたくない。

しかし、僕の願いも虚しく師匠は平然と答える。

「まあ、猫生の最後は猫らしく迎えないといけないからな」

師匠の声は落ち着いていた。風が通り抜けるような、穏やかでどこか寂しさを含んだ響き。

「でも、僕は最後まで一緒にいたいよ」

言いながら、喉の奥が詰まる。 泣きそうになっている僕をみて、師匠は少し微笑んだ声で答える。

「なあに、心配することはない。一匹の猫がある日突然居なくなったとて、世界は変わらず続いていくさ」

「変わらずって、でも僕にとっては…」

何もかも変わってしまうよ。そう言おうとしたところで師匠が言葉を遮る。

「私はね、生まれてから暫くの間は野良猫として生きてきた」

僕が生まれる前の話だ。そういえば師匠の過去の話はほとんど聞いたことがない。

「その頃は生きるために必死に動き回り、いつ死んでもおかしくないと思っていた。 訳あってこの家に拾われてからも、暫くは野良だった頃のクセが抜けなくて何日か家に戻らずに 過ごしたりしたものだ…。でも、お前が生まれてからようやくこの家を自分の居場所として認識できた。 そんな居場所を与えてくれた人たちに、自らの最後を見せるわけにはいかないのだよ」

師匠はゆっくりと瞬きをした。その金色の瞳には、懐かしむような光が宿っていた。

「だから、最後にお願いできるなら、どうかいつもと同じように送り出して欲しいんだ」

僕は思わず口をつぐんだ。師匠は僕が生まれたときから一緒に居て色々なことを教えてくれた。 その師匠が最後に望むことを、僕が拒んでしまったら……。

心の中で葛藤があったが、ようやく小さな声で答えた。

「……わかった」

「ありがとう。では、気が変わらないうちに散歩に行くとするかな」

師匠はゆっくりと体を起こして、玄関の方へ歩き始めた。

昔は縁側の網戸をこじ開けて外に出ていたのに、いつからか玄関の引き戸を開けて出るようになった。 きっと、縁側から飛び降りて着地する自信がもう無いのだろう。

そんなふとした行動を見て、堪えていた涙が零れた。 今からでも引き留めたい。でもダメだ、さっき約束したばかりじゃないか。

僕の鼻をすする音を聞いて師匠の耳がぴくりと動いたが、振り返りはしなかった。

涙で視界が霞んで、もう師匠の姿も禄に見えない。 でも、師匠との最後の約束、これはどうしても果たさなければ。

僕は唇を噛みしめ、最後の言葉を絞り出した。

「……いってらっしゃい」

視界の隅で、師匠は満足そうに尻尾をひと振りした。

―――

師匠が散歩に出たあの日から、随分と時間が経った気がする。

もう会えないとわかっているはずなのに、心の奥では師匠が何もなかった顔をして帰ってくるんじゃないかと思ってしまっている自分がいた。

最近は家に居るのが退屈で、休みの日は自転車に乗ってふらふらと走り回ってばかりだ。 今日も軽い外出のつもりだったのに、随分遠くまで来てしまった。 気がつくと田んぼのあぜ道を走っている。砂利を踏みしめる音が心地よい。

一面に広がる緑の絨毯は既に頭を垂れ始めていて、風が吹くたびに波が見える。 そういえば師匠と最後に話したときはちょうど田植えを終えた頃だったか。

「世界は変わらず続いていく、ね…」

ふと、師匠の言葉を思い出して呟いていた。 師匠が居なくなってからずっと何かが欠けている気がしていたけれど、世界はそんなことお構いなしに今も続いているのだ。

胸の奥に溜まっていた霞が、少し晴れたように感じた。

続いていく世界で、明日から何をしようか。 まずは小さなことから始めてみるのがいいかもしれない。

明日は、自分で朝ご飯でも作ってみようかな。